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黒田長政 / 姫路城 [詳細]
黒田孝高と正室・櫛橋光の嫡男として播磨姫路城にて生まれる。
黒田長政(くろだながまさ)
1568年12月21日(永禄11年12月3日)
ソース:https://ja.wikipedia.org/wiki/黒田長政
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織田信忠 / 二条御新造 [詳細]
本能寺の変:光秀謀反の報を受けて本能寺に救援に向かおうと出たが、信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく二条二条御新造に籠り善戦するも衆寡敵せずに自害した。
織田信忠(おだのぶただ)
1582年6月11日(天正10年5月21日)
ソース:https://ja.wikipedia.org/wiki/織田信忠
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大谷吉継 / 関ヶ原 [詳細]
関ヶ原の戦い:西軍に参加し午前中は東軍の藤堂高虎・京極高知両隊を相手に奮戦するも東軍に寝返った小早川秀秋の攻撃により自害。
大谷吉継(おおたによしつぐ)
1600年9月15日(慶長5年8月8日)
ソース:http://n-hp.com/navigate/public/mu8/bin/view.rbz?cd=51
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宇喜多秀家 / 天満山 [詳細]
関ヶ原の戦い:西軍の主力(西軍の中では最大の1万7,000人)として積極的に戦い、東軍の福島正則隊と激戦を繰り広げた。しかし同じ豊臣一門である小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した。
宇喜多秀家(うきたひでいえ)
1600年10月21日(慶長5年9月15日)
ソース:http://n-hp.com/navigate/public/mu8/bin/view.rbz?cd=102
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黒田長政 / 関ヶ原 [詳細]
関ヶ原の戦い:東軍の武将として関ヶ原の戦いにおいて戦う。本戦における黒田長政軍の活躍は凄まじく、家臣の菅正利の鉄砲隊などを従え、切り込み隊長として西軍に猛攻を加え、三成の家老・島清興を討ち取り、さらに父・如水譲りの調略においても親戚でもあった平岡頼勝らを通じ、西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目も務めており、それらの戦功により戦後、家康から御感状(福岡市博物館所蔵)を賜り、関ヶ原の戦い一番の功労者として子々孫々まで罪を免除するというお墨付きをもらい、筑前名島に52万3,000石とされる大封を与えられた。
黒田長政(くろだながまさ)
1600年10月21日(慶長5年9月15日)
ソース:https://akiou.wordpress.com/2014/05/25/kanbe21-ex/
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黒田長政 / 報恩寺 [詳細]
京都における黒田家の位牌寺、上京区報恩寺の客殿寝所にて、56歳の生涯を終える。
黒田長政(くろだながまさ)
1623年8月29日(元和9年8月4日)
ソース:https://ja.wikipedia.org/wiki/黒田長政
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宇喜多秀家 / 八丈島大賀郷 [詳細]
流刑先の八丈島で死去。享年84。関ヶ原を戦った大名の中で最も後に亡くなった。
宇喜多秀家(うきたひでいえ)
1655年12月17日(明暦元年11月20日)
ソース:http://minkara.carview.co.jp/smart/userid/157690/spot/765447/
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